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『サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-』感想

目次


はじめに


 ちゃすちゃす✋
 どーも、永澄拓夢です。

 てなわけで、今回の感想対象作品はこちら!

『サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-』


 前作から7年、発表から5年……。2度の延期を経て、ついに発売されました。
 商業ブランド『枕』さんの最新作であり、今や界隈では伝説的作品となった『サクラノ詩』の続編でもある本作。
 多大なる期待を寄せられる中で生み出された本作は、はたして我々にどのような景色を魅せてくれるのでしょうか?

 というワケで、さぁ蓋を────

 ────と、いつも通りに始めたいところなのですが、今回はもう少しだけ<はじめに>で語らせてください。

 実を言うと、本感想記事はいつもとは異なり、作品を完走してから書き始めています。
 というのも、まず前提として私のスタンスは本来、<はじめに>や<あらすじ>の欄は作品開始前に埋めてしまって、<各パート感想>の欄は一つ一つのパートやルートが終わる毎に埋めるというのが常でした。とはいえ、今までに書いてきた感想記事すべてがこのスタンスを満たしていたかと問われればそうではなく、元々感想を書く気はなかったけどいざ完走してみたら書きたくなったから完走後に急遽こしらえたという感想記事も実際には存在します。ただ、それらは類に漏れず、『感想を書くほどの作品ではないだろう』という期待の薄さが開始前にあったが故のこと。プレイする全ての作品の感想記事を書いていたら、さすがに骨が折れますからね。作品の感想を書くか否かは、ある程度プレイ開始前の期待度でふるいにかけていたりします。
 では、完走後に感想記事を拵えることになった『サクラノ刻』もまた、元々は期待していなかったのか?と問われれば、答えは『NO』です。それどころか全くの真逆。大いに期待しておりました。いや、だって、私の『魂の作品』である『サクラノ詩』の続編ですよ? 期待しないワケがないじゃないですか。
 じゃあ、なぜそれほどまでに期待していたにも関わらず、完走後に感想記事を拵えることになったのか? 答えは『本作を語れる自信がなかったから』です。正直な話、私はこのレベルの作品を語るに足る言葉を持ち合わせていません。そもそも私の頭はそこまで良いワケではなく、思考力も平凡以下です。であるならば、私のようなちっぽけな存在の感想によって本作を穢してしまうのはあまりにも気が引けると考えていた次第です。
 しかし厄介なことに、本作は先に進めれば進めるほどに語りたいことが増していく類の作品でした。結論から言ってしまえば、本作は期待通り私にとっての『魂の作品』になってくれたワケです。故に私は結局、みっともなくこそあれど、本作の感想記事を拵えることを決意しました。
 そんなこんなで本感想記事には、稚拙な文章表現、粗の目立つ考察、独自的な誤解釈、深読み、論理の飛躍、矛盾等々、至らぬ点が多々登場することと思います。思考が整理しきれていない点や、纏めきれずに記述しそびれている点も多々散見されると思います。そのような箇所に対しては、何卒温かい目で読んでいただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

 ただ、本感想記事を読む上での大前提として先に申し上げておくことが1点あります。
 それは、「本感想記事では、本作が私にとっての『魂の作品』となった理由については言及していない」ということです。
 「いや……どういうこと? ちゃんと語れや」と思われる方もいらっしゃると思いますので、軽く説明します。
 私にとっての『魂の作品』とは、文字通り『魂に刻まれた作品』という意味です。これは何の比喩表現でも誇張表現でもなく、本当に『魂に刻まれた作品』に対して用いられる最上級の評価となります。
 皆さんは、『作品が己の魂に刻まれる感覚』というものを経験したことがありますでしょうか? 経験したことがある方であれば理解できると思いますが、この『魂に刻まれる感覚』というものは何とも形容しがたく言語化が非常に難しい感覚なのですよね。面白いという感情とも異なる。楽しいという感情とも異なる。好きという感情とも異なる。そもそもそういった次元の概念ではないとさえ感じる。ただひたすらに不思議な感覚。己の魂にその作品が刻まれ、染み込んでくる感触。それがいったい何をトリガーとして、どのように”やってくる”のか、皆目見当がつかない。要は、この『魂に刻まれる感覚』というものは、少なくとも私にとっては、理解することも言語化することも出来ず、ただただ感じる事だけが許された語り得ぬ概念であるということを言いたいのです。故に、本感想記事では、本作を私にとっての『魂の作品』と位置付けておきながら、「なぜ『魂の作品』という評価になったのか」という部分についてはその詳細を一切語りません。その点をご理解いただけると幸いです。
 というワケで、本感想記事に書き綴るのはあくまでも語り得ることについてのみ。感情的な部分だとか、テーマやメッセージに関する解釈だとか、そういった内容になります。大層お見苦しい思考の数々であるとは存じますが、改めてよろしくお願いいたします。

 さぁ、それでは、蓋を開けましょう────

あらすじ


■『第 I 章:La gazza ladra <泥棒カササギ>』
 ロッシーニのオペラでセミセリアにあたる。
 このセミセリアとは悲劇を題材にしつつもメロドラマの様な雰囲気を持つ喜劇であり、大抵のメロドラマがそうである様にややご都合主義なハッピーエンドで終わる。

 『La gazza ladra』は、19世紀初頭にフランスで流行していた「救出オペラ」の一種であるが、カササギという独特な登場人物に特色がある。

 カササギが盗むものとはなんであろうか?  あるいはカササギに課せられるべき罪とはなんであろうか?

■『第 II 章:Картинки с выставки <展覧会の絵>』
 ムソルグスキーが画家の詩を悼み、その展覧会を訪れた際の足音と心情を曲にしたと言われている。

 生涯のライバルであるハズだった夭折の天才の絵画を前にして、彼の足のテンポはいかなるものであっただろうか?

 歩くテンポは、まるで刻のテンポの様に、緩やかであり、めまぐるしくもある。
 そして、テンポの繰り返しの中で廻天する様に、櫻と向日葵は咲き続ける。

■『第 III-I 章:Der Dichter spricht <詩人は語る>』
 ピアノ技巧曲を極めようとして右手の力を失ったシューマン

 そんな彼の代表作とも言われるピアノ曲子供の情景』。

 その13番目の曲の名は「詩人は語る」。

 詩人が語るものとはなんであろうか?
 詩人とは誰の事であろうか?

■『第 III-II 章:kibou <幾望と既望>』
 満月の直前、そして満月が過ぎ去った後。

 共にその名はキボウと呼ばれる。

 子供の時に手が届かないと泣いた美しい月。

 その月は彼女にとって、幾望であるか、それとも既望であったのか。

■『第 III-III 章:Night on Bald Mountain<禿山の一夜>』
 ムソルグスキー交響詩『禿山の一夜』。

 かの禿山には、地霊チェルノボグが現れ、その配下の化物ども、魔物や魔女や幽霊が大騒ぎしたという。

 だが今や、その亡霊が下界に降りて、世界をさまよっている。
 芸術家という恐るべき亡霊。

 およそ古いすべての権威が、この亡霊を恐れている。

 このさまよえる亡霊とはいったい誰の事であるのか?

■『第 IV 章:Mon panache !』
 私の師は、「その冠羽を『心意気』だ」と言いました。

 上空を飛ぶ美しい鳥は海水深くまで見通せる。
 多くの光を持つのではなく、多くの光を集める眼球。

 美の真実はこの様な眼球によって生まれる。
 もっとも深き瞳を持つ者。

 二つの交差する視線。
 二つの向日葵はまるで太陽を目指して駆け昇る。

■『第 V 章:D'où venons-nous ? Qui sommes-nous ? Où allons-nous ?』
 「彼は、彫刻を掘り終えた、と思い込んでいた。

 しかし実際には、たえず同じところに鑿を打ち込んでいたにすぎない。

 一心に、というよりも、むしろ途方にくれて」

 フランツ・カフカ -断章-

 引用元

所感




~以下ネタバレ有~
~『素晴らしき日々』と『サクラノ詩』のネタバレも含みます~











各章感想


 クリア順は、以下の通りです。
 I章 ⇒ II章 ⇒ III-III章 ⇒ III-I章 ⇒ III-II章 ⇒ IV章 ⇒ V章 ⇒ VI章
 

第 I 章:La gazza ladra <泥棒カササギ

 本章に限り、事前に体験版でプレイ済みでした。そのため、本章のみ2周したことになります。
 結果としては、2周とも泣きましたね。スタートダッシュは完璧。初っ端からこのクオリティは凄い。

 鳥谷静流と中村麗華の学生時代の話。鳥谷紗希が起こした弓張学園クーデターを境に壊れていく関係性を描いた物語。
 そもそもの展開からして私好み。努力が報われる展開というものに私は弱いのです。しかも、これにより果たされるのが、普段飄々としているキャラの胸の内にあった『認められたい』という願望であるならば、その感動は数倍にも昇ります。ギャップ最高。

 本章の立ち位置は、サクラノ詩とサクラノ刻を繋ぐ『接続章』であったと考えられます。サクラノ詩では明かしきれなかった情報の補完を交えつつ、サクラノ刻で必要となる物語を紡ぐ役割を有しているといった感じです。
 本章を読んでいるか読んでいないかによって、サクラノ詩の『III章 PicaPica<鳥谷真琴√>』から受ける印象は全く異なるものとなるでしょうね。
 サクラノ詩では比較的モブに近しかった二人に焦点を当てた内容でありながら、本章はサクラノ詩・サクラノ刻の両方を語る上で無くてはならないほどの存在感を放つ重要性を内包していると言えるでしょう。

 本章では、「『真作と贋作』という関係性と『本物と偽物』という関係性はイコールではない」という考え方が語られたものと解釈しました。要するに、『贋作』であろうが『本物』と評される場合もあるし、『真作』であっても『偽物』と評される場合もあるということですね。この考え方はサクラノ刻の物語の中でも非常に重要な前提となるのですが、同時にサクラノ詩においても多大な意味を持つ考え方であると感じました。なぜなら、サクラノ詩における物語と『贋作』というものは切っても切れない関係であるからです。『櫻七相図』における『六相図』、『雪景鵲図花瓶』、『オランピア』。サクラノ詩において問題を打開する手法として使われたのが、『贋作』でした。厳密には、この中でも『オランピア』だけ別枠であるという認識なのですが……(六相図や雪景鵲図花瓶は作者や背景を偽っているタイプの贋作であり、発表のされ方さえ異なれば『真作』にもなるため)。まぁ、兎にも角にも、本章で示された「『真作と贋作』という関係性と『本物と偽物』という関係性はイコールではない」という考え方は、サクラノ詩におけるそれら『贋作』を用いた展開を明示的に肯定する考え方であったのかなと感じた次第です。
 ちなみに、麗華のセリフの中に、『本物を見る眼』という概念が出てきますが、これは『真贋を見抜く目』ではなく『本物を見出す目』という意味であることが本章の展開から読み取れますね。いくら贋作であると聞かされても、というか贋作であることを理解しつつも、それでも雪景鵲図花瓶を『本物』であると言い張った麗華の一貫した美意識には思わず感嘆しました。いや、だからといって麗華が行ったイジメの数々は決して赦しませんが……。

 よくよく考えると、メインキャラをほぼ出さずにサクラノ詩ではほぼほぼ光の当たらなかった二人をメインに据えた物語を続編の第I章に持ってくる構成もかなり大胆ですが、その内容でこれほどのレベルの面白さを提供してくるというのも異常ですよ……。ホント頭おかしい……(誉め言葉)。

第 II 章:Картинки с выставки <展覧会の絵

 面白さは凡々。
 展開的には、よくあるエロゲの共通パートという印象を受ける章でした。とはいえ、やっとこさサクラノ詩VI章から地続きの物語に触れられたワケですから、それだけでも満足感のある章でしたね。待ち望んだ5年という歳月は、とても長いのです。
 ただまぁ、本章の役割を考慮すると、むしろ本章において抑揚の無い平々凡々な直哉の日常を描くだけに留めるという判断は正しくもあるのかなとも思います。

 本章の立ち位置もまた、I章同様に『接続章』であると考えられます。役割としても第I章同様に、サクラノ詩では明かしきれなかった情報の補完を交えつつ、サクラノ刻で必要となる物語を紡ぐものであったかと。第I章との違いがあるとすればそれは、『補完』としての役割に比重が傾いているのか、それとも『おさらい』や『序章(≒エロゲ的共通パート)』としての役割に比重が傾いているのかの違いでしょう。第I章が前者に重きを置いていたのに対し、第II章は後者に重きを置いていたと感じました。
 おさらいとしては主に、直哉が桜子に明かした圭との過去話(これは補完も含みますが)や、直哉が鳥谷紗希と行った旧弓張美術部に関する思い出話、そして終盤のムーア美術展で桜子が圭の絵画『二本の向日葵』から読み取ったメッセージ等が該当するでしょう。今後サクラノ刻の物語において必要となる直哉周りのサクラノ詩の展開は一通り抑えていたように思います。新入生勧誘イベントという、サクラノ詩において旧弓張美術部員が経験したイベントを持ち出してきたのもその一環であるかと。
 しかしこのおさらいという役割、ある意味本章における物語との親和性が非常に高いのですよね。なぜなら本章は、教師生活の中で再び前を向いて歩こうとする草薙直哉の姿勢が強く示される物語だから。圭や旧弓張美術部員と過ごした日々の過去話を盛り込み、展開的に過去のイベントと現在のイベントを重ねることによって、長らく『あの頃の景色』しか見えていなかった直哉の情景が『未来の景色』へと変化していることを章全体で表現していると解釈出来るワケです。故にこそ本章は、草薙直哉から夏目圭へ送る「俺は、その先に行くよ」というメッセージによって締め括られるのだと考えられます。

 そういえば、これはサクラノ詩VI章プレイ時には気付けなかったことなのですが、『櫻達の足跡』の変遷はまさしく学生時代~現在に至るまでの草薙直哉の人生の歩みの暗喩になっていると解釈出来ますね。
 『櫻達の足跡』は、学生時代。輝いていた青春時代の直哉と仲間たちの足跡。
 『櫻達の灰色の足跡』は、圭を喪ってからの十年間。停滞感の中で過去の圭との日々にばかり想いを馳せる直哉の足跡。
 『櫻達の色彩の足跡』は、この作品完成後の現在。教員としての自らに意味を見出し、再び前を向いた直哉の足跡。
 ここで肝となるのは、『灰色』の時代にも足跡は残っているという点です。それはつまり、停滞感に苛まれていた期間であっても、立ち止まってなんかいなかったのだということ。決して前を向いてはいなかったのだろうが、それでも歩みは止めなかったのだということ。直哉は自分が歩みを止めていなかったという気付きを『櫻達の色彩の足跡』から得ますが、暗喩的作品が本人に気付きを与えるという構図は、なんだか芸術の本質(後に語る『表層』ではなく『真実』を見るということ)を体現しているようで感慨深いです。
 それはそうと、ここいらの話が彷彿とさせるのはやはり、同ブランド作品『H2O』や同系列作品『素晴らしき日々』に登場した『FOOTPRINTS IN THE SAND』という詩ですよね。詩の内容(和訳)は以下になります。

ある晩、男が夢をみていた。
夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。
そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。
どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。
ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。
人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。

すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあるのだった。しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだった。
すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。

「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」

神は答えられた。
「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」

 ここで着目したいのは、『辛い時であっても神様が背負ってくれていたから前には進めていた』という点なのですよね。もちろん直哉は神様に背負ってもらっていたワケではなく、無意識ながらも自分の脚で歩いていたのでしょうが……。それでも、なんとはなしにこの詩を思い出さずにはいられませんでした。

 本章はある種、草薙直哉が「ちゃんとやれているよ」というメッセージを込めて夏目圭に宛てた『ビデオレター』のような内容であったような気がします。
 さて。とはいえ、歩みは進めるものの芸術の道を奔ることはなくなってしまった直哉を見て、圭はいったい何を思うのでしょうね。

第 III-III 章:Night on Bald Mountain<禿山の一夜>

 面白かったです。
 やっとこさサクラノ刻本格始動という印象を受けますね。込められた思想とそれに伴うメッセージの濁流で溺れるかと思いました。

 本間心鈴と恩田寧の因縁の物語。恩田家による中村麗華関係者への憎しみと、その行く末が描かれる内容。
 展開的には、直哉VS吹を彷彿とさせるような心鈴と寧による即興絵画バトルがあったり、直哉が他キャラと思想を戦わせる場面があったりと、盛り上がるポイントが複数用意されていて心躍りました。
 IV章・V章に繋がる分岐はまた別枠だと思うので、ここではあくまでも心鈴と寧が和解する方の分岐についてのみ語ります。

 本章は、『芸術における才能』というものについて深く掘り下げた上で、『芸術とは何か』を”芸術家視点”で語る内容であったと解釈出来ます。
 『表層』と『真実』という概念を多用しつつ、その境界線を越えることが出来る『才能』と『勇気』を持ち合わせているかによって、芸術の本質である『真実(=美)の表現』を成し得ることが出来るか、或いは『表層』に囚われたつまらない表現しか出来ないかが決まるということが、本章では示されました。
 この観点からすると、その二種類の人間を完全に分けて語るのではなく、あえて『表層』に囚われていた人物に転換期を迎えさせた上で『真実の表現』へと至らせる物語構成にしたのは、展開的にも盛り上がる上手い采配だと思いました。また、この役割を担ったのが他ならぬ恩田寧であったことがさらに良さを引き出しています。彼女の兄が、サクラノ詩でもその一心不乱さを実際に我々に見せつけた夏目圭であるからこそ、尚更その対比が活きたと考えられます。

「芸術家の仕事とは、奇跡を生み出すことです。奇跡的だと思われるものが、いつでも降り立つ準備だけはしておいてください」
と言われた。
私達芸術家は奇跡を生み出すのが使命なのだ。
絵画に宿る「真実」とは、奇跡的だからこそ価値があり、そして魂を楽しませるのだ。
私達は、その奇跡が降り立つ瞬間をいつでも待ち構えていないといけない。
美における「真実」は、そこいらにある。

「絵画とは、奇跡を生み出すことです」

 本来の芸術家の役割としてはまさしくその通りなのでしょうね。ただ、ここで言及された考え方だけでは不完全なのだろうなぁ……とか思ったり。

 ちなみに、実は本章では少しだけ”芸術家視点”ではなく”鑑賞者視点”での『芸術とは何か』についても触れられています。泪川ドヤ街における長山香奈との飲みの場面ですね。
 本場面では、芸術家・批評家相手には全く相手にされなかった長山香奈の絵画を指して、飲み屋の店員であり直哉の生徒でもある柊ノノ未が「この作品は『本物』である」と語ります。この際、謙遜する香奈に対して、ノノ未は以下のようなセリフを紡ぎます。

「だったら、本物が分かる目など、この世を生きていて苦痛でしかありませんよ。他の人たちみたいに、偉い先生が認めたものだけ見てはしゃいでいる方がよっぽど幸せになってしまいます!」

 このセリフは、表面的に捉えれば『「本物」を見る眼』を持たない愚の大衆(自分にとっての価値基準を自分以外に委ねてしまっている人間たち)をこき下ろしているだけのセリフに見えますが、実際のところはかなり作中においてもかなり重要なセリフとなっております。まず、本セリフの真意は、「自らにとっての『本物』とは自らで見出すものである」ということなんですよね。これは、第I章における中村麗華の美意識の在り方と全く同じものです。そしてさらにここから分かるのは、「『本物』とは人それぞれである」ということなんですよ。芸術家や批評家に相手にされなかった長山香奈の絵画が、少なくとも柊ノノ未やその他の支持者の眼には『本物』として映ったという事実が大切なんです。
 これはある意味、サクラノ詩VI章で草薙直哉が語った『人に寄り添う弱き神様』の肯定でもあります。ここだけでは正直、この理屈に『表層』と『真実』の差異が絡んでくるのかまでは読み取れませんが、それはそれとして長山香奈ほどの人物であれば、絵画を書くのに何かの『想い』を込めているハズなんですよ。それが『表層』を超えて『真実』にまで至っているのかは定かではありませんが、少なくとも大なり小なり彼女の『想い』が込められているというのは事実なワケです。で、あるならば、その『魂』に共感した人がその作品を『本物』であると評するのは頷けます。直哉がサクラノ詩V章で語った通り、『本物か偽物か』(或いは『美』)は見る者の『想い』に依存するのです。
 終盤に「魂が喜ばない作品など、芸術ではない」という印象深いセリフが生まれた本章ですが、先の物語を読めばそれは”芸術家視点”だけでは決して成り立たない理屈であることがよく理解出来ます。ここで喜ぶ魂とは、果たして誰のモノであるのかについては、考えなければなりません。であるからこそ、本章内でほんの少しであれど”鑑賞者視点”での『芸術とは何か』が語られたことには大きな意味があると思いました。
 ちなみにここで語った理屈は、後に語る第IV章でもけっこう重要になる考え方です。『魂の共鳴』とか『観念の同調』とかそこいらの話ですね。ちょっとフライングしちゃったかな。

第 III-I 章:Der Dichter spricht <詩人は語る>

 本間心鈴の個別ルート。
 面白さはぼちぼちといったところ。まぁ、良くも悪くもエロゲ的というかなんというか。ひたすらに心鈴ちゃんが可愛かったですね。
 ただ、告白シーンは見応えがありましたし、本章でも例に漏れず思想が語られたので、一定の面白さはあったのかなと思います。

 直哉が愛を見つけ、心鈴が幸福に包まれる物語。
 本章では『虚無』という言葉が多く登場し、そこから『美』を見出すことの意味について語られました。まさに『虚無』から芸術という『美』を見出す人生だった心鈴のルートシナリオとしては相応しい内容であったと言えます。
 ……今考えると、本当に夏目圭との親和性が高いな……。

 本章でも引き続き『美』についての思想が展開されますが、本章で語られたのは『表層』と『真実』という見方からもう一歩進んだ考え方になります。それが、『私』と『世界』と『美』の関係性について。ただ、この考え方は、実は初登場の思想ではありません。内容としては、サクラノ詩V章において草薙直哉が御桜稟に語った思想と同じものとなります。ただ、本章においてはそこにさらに、『他者の存在の必要性』というプラスアルファが与えられています。
 サクラノ詩V章における草薙直哉の談は以下の通りです。

「世界の限界で私は循環し、また私の限界で世界も循環する」
「私と自然はつねに円環の中にある」
「心と自然はつねに円環の関係にあるんだよ」
「だから、それは二つの別々なものではない」
「同じものなんだ」
「それは当たり前で、俺達が日々見ている見慣れた風景というのは、いつでも過去と現在と未来を含んでいる」
「それは時間的に推移するあらゆる事象……過程の集まり……」
「そんなものが静的なワケがないんだよ。世界は動的だ」
「切り取った瞬間は世界じゃない」
「だから、俺達は普通に歩く事が出来る」
「話す事が出来る。絵を描こうと思える」
「キャンバスの前に立つ。そして筆を持ち、絵の具を溶かし、そして、動的な世界から、瞬間を切り取る事が出来る」
「それは、猫が横を発見した様に、俺達も、いろいろ発見するからなんだ。あらゆる自然の中に、与える物、提供する物、を発見する」
「それはもちろん、良いものだけじゃない。横に転がった棒なんて、ぶつかったら痛いしな」
「けど、そういう性質を世界と私の中で発見してゆく」
「そして、世界と私は循環するんだ」
「自然と心は別々じゃない。等しく私を構成する要素だ」

 これに対して御桜稟は、「なるほど、草薙くんは、美もまた、世界の限界、私の限界と同じ様に、循環し、流動すると言いたいのですね」と返しています。要は、サクラノ詩V章では、『世界(自然)』と『私(心)』の同一性・循環性と、そこに『美』を見出すことについてしか語られていません。
 それに対し、本章ではこの思想を語る前に以下のような語りが入ります。

人は一人で生まれて、そのまま虚無で育つ事は出来ない。
誰にも話しかけられない幼児は、適切に栄養を与えられたとしても、数年も生きる事は出来ないという。
自分以外の”誰か”の言葉がなければ、人は死ぬ。
”誰か”という存在があるから、私の世界が形作られる。
人は孤独にも、一人で生まれ、そして一人で死んでいく。
その事実は完全に正しい。
だとしても、誰か他の人間の存在が無ければ、私という世界は形作られる事もなく朽ちていく。
生まれたばかりの幼児をとりまくすべて────ベッドの肌触り────家の匂い────母親の笑顔────優しい言葉、その様なものに囲まれているからこそ、私という存在となる。
私という存在は、一見すると閉じているが、だが世界に対して開かれているからこそ、今と此処に有る事が出来る。

 要は、そもそも『私』と『世界』を語る以前にそれらが成立するには『他者』の存在が必要不可欠であるということ、そして『私』という存在が『他者』にも開かれているからこそ、『私』が『私』であると確立するための『今』と『此処』が存在するのだと言っているのです。そしてこれは、後のIV章における草薙健一郎の談とも同様の思想となります。ホント、親の影響を受けている息子だこと。

 また、本章ではIII-III章で示された『芸術家』ほどストイックでも天才的でもない『創作者』の在り方が示されました。直哉が、本間心鈴の兄である本間心佐夫とゲームを作ることになる展開ですね。直哉は心佐夫の書いた稚拙な小説が心に刺さったと言います。これは、III-III章で示されたストイックな芸術家の理屈では決してあり得ない現象です。心佐夫には才能などなく、誤魔化すための技術すら持ち合わせていない。それなのに、直哉には刺さった。それはつまり、類稀な才能や高度な技術などなくとも、『魂』さえ込めることが出来るのであれば、誰かの『魂』を喜ばせる作品を生み出すことは可能なのだということ。もちろん、研鑽を積み、芸術家としてより質の高い『美』を求めることも立派な一つの道です。ただ、それだけが創作者の在り方ではない。大なり小なり『魂』を込められるのであれば、誰でも創作者たり得るということが示されたのではないかと解釈しています。

心鈴「人が作品をつくるという行為とは、極限にまで研ぎ澄まされているからこそ、人の心を打つ、そう信じています」
心鈴「何も研ぎ澄まされず、魂を見つめる事もなく、ただわがままに欲望を書き散らしたもので、人の心を打つ事なんてできるのだろうかって……」
直哉「素晴らしい努力をして、どれほど素晴らしい芸術を携えたとして」
直哉「たとえ望んだ結果にすべてがなったとしても、それはやはり運命の恩恵にすぎない」
心鈴「なぜならば、意志と世界にはそれらを保証するいかなる論理的連関も存在しない。からですか?」
直哉「まぁ、端的に言えばそんなもんだよ」
直哉「ある意味で、君のお兄さんは正しいよ。創作に聖域なんてない」
直哉「魂の重さが作品の質を左右するとしても、だからといって軽い魂で描かれたものに価値がないなんて言えない」

 ここの理屈って、今考えてみると多分、最終的な直哉の結論にも繋がるんですよね。
 技術などに拘らず、ただひたすらに『魂』を込める……。

 さて、本章に関する記述も大分長くなってきましたが、最後に一つだけ。草薙健一郎と本間礼次郎の会話について。本場面において示された思想は、おそらく作中でもトップクラスで重要な思想となります。
 本場面では、『明滅する光』や『音節』という”例え”を用いて、『人生』という『美』についての思想が語られています。人の世にあるすべて。それらは現象(或いは現象としての美)。現象を『明滅する光』であるとする。一つ一つの『光』を『音』とする。光が灯れば音が鳴り、光が滅すれば音が止む。強い光であれば高い音、弱い光であれば低い音。それらの音を音節の上に並べ、光の明滅をテンポとする。すると、どうだろう? それは美しい音楽となる。ではここで、『音』や『光』を『幸』に、『音節』を『時の流れ(≒人生)』に変えてみよう。強い光(高い音)は『幸福』であり、弱い光は『不幸』である。ともすれば、『幸福』も『不幸』も人生の中には存在するからこそ、まるで音楽のようにその人生とは『美しい』のではないかと。光の明滅がなければ、その音楽は『虚無』でしかない。だからこそ『幸福な生』においては、『幸福』と『不幸』がテンポを刻んでいる必要があるのだろうと。私はそのように解釈しました。そしてこれは、本作の結論でもあるとも私は考えております。
 『幸福』も『不幸』を同種の概念と扱うことについては、サクラノ詩VI章および先のV章における直哉と藍の会話の中で示されている通りです。『幸福』も『不幸』も、分量が異なるだけで同じものでしかない。だから、『幸福』と『不幸』とを別物として無闇矢鱈と悲観する必要は無いという話に繋がるワケですね。

第 III-II 章:kibou <幾望と既望>

 鳥谷真琴の個別ルート。サクラノ詩における真琴√と比較すると、『真・鳥谷真琴√』と称しても良いのかもしれませんね。
 サクラノ詩における鳥谷真琴√と絡む要素は同じでありながら、時代とアプローチ方法が変わるだけでこれほどまでに好転した展開へと持って行けるのだということに驚きました。これをサクラノ詩の段階から考えていた上で、サクラノ詩における鳥谷真琴√を手放したのだとすれば、それもまた納得だと思いました。……まぁ、サクラノ詩における鳥谷真琴√周りの展開や設定は執筆された浅生詠先生が考えているハズなので、それは無さそうですが。
 面白かったです。サクラノ詩における鳥谷真琴√との対比を常に意識して読むと、また一段と面白味は増すのかなと思います。

 鳥谷真琴の青春のやり残しに付き合う物語であり、鳥谷静流と中村麗華の和解の物語。
 過ぎ去ってしまったあの奇跡的な青春時代を憂いつつ、どこか拭えない寂寥感と共に物語が進行する章でした。
 序盤は急にビッチと化した真琴との唐突なエロシーンに驚きましたが、中盤からの展開は盛り上がるポイントも散見されたため安心しました。静流との酒飲み対決シーンやフリッドマンとの交渉シーンが特にお気に入り。成長した直哉に対するフリッドマンの微笑みは感慨深かったです。
 中村麗華の美意識や雪景鵲図花瓶に対する本心がここまでハッキリと掘り下げられるものとは思ってもみませんでした。てっきりこのまま麗華の本心はユーザーの想像にお任せします~的な感じになると思っていたので……。

 本章は、鳥谷真琴や中村麗華、鳥谷紗希といった、所謂『芸術家』になることが出来なかった『凡人』たちの、それでも芸術に関わろうとする『勇気』が描かれた章でもあったと解釈しています。
 中村麗華は『批評』、鳥谷真琴は『芸術誌の雑誌編集』、鳥谷紗希は『芸術家を育てる学校の教師 兼 美術商』といった感じで、彼女たちは芸術の道から退いた後も何らかの形で芸術に関わる道を進むことにしました。彼女たちのような凡人にとっては、おそらく芸術とは自らの無力を思い知る対象であり、人によっては恐怖を感じる対象でもあるでしょう(主にあのヒステリック顎ヒゲ)。しかし、それでもなお天才たちを追い続けようとする精神は、一種の『勇気』であると私は思います。

 本章では、芸術の道から退いた『凡人』視点での芸術の在り方も示されています。このことについて、真琴は以下のようなセリフを残しています。

「世界を変えてしまうほどの美」
「そんなものをずっと間近で見てたら、普通でいられるかしら?」
「真理の美を追い続ける者の先にあるもの、それはなんであるのか────」
「キリストを売った男は、何故、わずかばかりの銀貨のために神の子を売ったのか」
「世界を救う神の子、あらゆる世界の真理を持つ者の傍らにいて、なぜその男はキリストを売らなければならなかったのか」
「正しい救いを、どれほどの人間が望むのか……」
「真円の月はたぶん真理」
「けど、真理なんていらない」
「真理から少しぐらい欠けているものでいいと思う」
「幾望の光でも十分」
「既望の光でも十分」
「欠けているから安心出来る」
「欠けているからこそ、人はそこに希望を見る」
「完全なものに希望をみいだすのは、狂気の心がなせるわざ」
「だから私みたいな人間には、十二番目の使徒の気持ちが少しだけ分かる」

 要は、眩しすぎる『真実』・質の高すぎる『芸術』は、必ずしも万人に受け入れられるものではないということ。少なくとも私は、そう解釈しました。この点、心鈴の信じる『芸術』の在り方とは相反する在り方にもなっている気がしますね。心鈴は、「極限にまで研ぎ澄まされているからこそ人の心を打つ」と信じていますが、真琴のようにそのような作品が眩しすぎる人もいるワケです。
 案外、第III-I章で示された『未熟な作品であっても魂を喜ばすことは出来る』という考え方が成立する背景には、真琴のような『鑑賞者』の存在があったりするのかもしれませんね。いや、全員が全員そういうネガティブな感じじゃないでしょうけど。
 それはそれとして、直哉のプロポーズがこの話に直結していたのはかなり上手い魅せ方だなと感じました。欠けた月に希望を見出す真琴に対して、あえて真円から欠けた指輪……。こんなんされたら惚れ直すに決まっているでしょ。直哉クンもキザだねぇ。

 最後に。
 本章でも、『幸福な生』については言及されていました。
 第III-I章では、幸福と不幸を『光の明滅』、人生を『音節』として表現していましたが、本章では、幸福と不幸を『月の満ち欠け』、人生を『月の周期』として表現していました。実際の直哉のセリフが以下になります。

「幾望の月も────
 既望の月も────」
「満月に再び戻る」
「不幸も幸福も同じだ」
「月の満ち欠けみたいなもんさ」
「だから幸福を怖がるな」
「やってくるかもしれない不幸を怖がるな」
「ちゃんと戻ってくる」
「幸福な時間だって再び」

 要するに、不幸と幸福は繰り返し訪れるのだから、『不幸に陥る事』も『幸福を失う事』も恐れるなということですね。『幸福な生』に関する考え方において、第III-I章では言及されなかった思想になります。第III-I章ではあくまでも、『幸福も不幸もあるからこそ人生は美しい』ということだけが語られましたが、いくら美しいとはいってもやはり『不幸に陥る事』や『幸福を失う事』は怖いものなんですよね。そこを補う形で「恐れる必要は無い」と主張したのが本章になるのでしょう。そういう意味では、『幸福な生』に関する考え方は、第III-I章と第III-II章の両方を以て初めて一つの形になるのだとも考えられます。

第 IV 章:Mon panache !

 感無量です。号泣しました。

 過去編。夏目圭の走馬灯。
 『二本の向日葵』に込められた、夏目圭の『幸福な生』の全て────
 そういう役割の章であると思うだけでも、かなり胸に来るものがありました。

 本章に関しては、そう語ることも多くは無いと思います。
 ただただそこにあったのは、夏目圭が『虚無』から『美』を見出し、やがて草薙直哉を一途に追いかけ続ける『美しい人生』であったのだから。
 サクラノ詩では詳細まで知ることの出来なかった夏目圭の想いの源泉を知ることが出来たのは、何とも感慨深い体験でした。本章を読んだ後にもう一度サクラノ詩V章を読むときっと、感動が倍増するものと考えられます。

 本章の最も大きな役割はもちろん『二本の向日葵』に込められた夏目圭の全てを描写することですが、それとは別にもう一つ、大きな役割を本章は担っていると解釈しております。それは、『幸福な生』の体現です。圭の人生は波乱万丈なものでした。『虚無』から始まり『美』を見出し、幸福も不幸も繰り返し経験し、しかしそれらを無闇矢鱈に恐れることなく、最期には自らのそんな生を総じて、「幸福だった」と締め括る。さらに補足するならば、『死』や『ありもしない風景』を夢想することで絶望するなどということもなかった。こうして見ると、夏目圭の人生とは、まさしく『素晴らしき日々』から『サクラノ詩』、そして本作『サクラノ刻』に脈々と受け継がれてきた「幸福に生きよ!」の体現であると言えるのではなかろうか? 少なくとも私はそう解釈しました。

 本章は、これまでの章で示された思想の多くを一旦纏める章でもあったような気がします。『真実』を描写するという芸術の意義から、『自分』という存在を確立する上での『他者』という存在の必要性、『私』と『世界』の関係性、鑑賞者にとっての『本物』、そして、『流れていく風景と音楽』。こういった観点からすると、本章はクライマックスとなるV章に至る前の思想整理の役割を担った章とも言えるのかもしれませんね。……いや、IV章だけでいったいいくつの役割を担ってんだ……。
 上述したものの中でも特に私が言及したいのは、鑑賞者にとっての『本物』に関する思想についてです。健一郎は、圭に「肉体も精神も両方軽視するな」と注意した際に、自分と他者に関する話や、絵画に精神や魂が宿るという話を交えつつ、 壁画の例を用いて、遥か古の画家の脳の中にあった観念がその壁画を見た探検家の中でよみがえることにより画家の持っていた「美しい」という感情を探検家も得るみたいな論を展開します。私はこの健一郎の談とこれまでの章で語られた理屈から、「作品を生み出した創作者と作品を鑑賞した鑑賞者の美意識や価値観が合致することによって、鑑賞者の中では創作者の観念との同調が果たされる。宿っていた創作者の観念との同調を果たせた作品を、鑑賞者は『本物』であると感じる。裏を返せば、創作者と鑑賞者の美意識や価値観に齟齬があることによって観念の同調が為されなかった場合、その鑑賞者にとってその作品は『本物』とはならない。故にこそ、鑑賞者によって『本物』は異なるし、鑑賞者は自らの美意識や価値観に基づいて『本物』を見つける必要がある」という解釈をしました。健一郎が直接明言している理屈ではないため、実際健一郎がこのことについてどのように思っているかは定かではありませんが、実際完走してみた感触としては間違っていない解釈であると思っています。
 『流れていく風景と音楽』については本感想上で初めて記述した表現であるような気がするので説明しますが、要はこれは第III-I章における『光の明滅による音節』や第III-II章における『月の満ち欠けと周期』と同じものであると考えていただいて大丈夫です。実は『流れていく風景と音楽』という表現は、第III-III章でも草薙直哉が本間心鈴をバイクに乗せる場面で実際に使用されていたりします。ここいらの思想については散々これまでの章の感想で上述したのでいいとして、強いて補足するとすれば『過ぎ去っていく風景や消えていく音楽の一つ一つを当たり前のものと捉えずに奇跡的なものとして忘れないこと』が重要であるといったところですかね。人生の中で出遭うありとあらゆる事象が奇跡的であり、それらは決して当たり前のものではないという風に言い換える事も出来ます。本当は、最も過ぎ去った過去が『奇跡』であったことを示す内容だった第III-II章でこれについても言及出来れば良かったのですがね。話の流れ的に、なんか言及出来ませんでしたね……。そういえば、この思想が登場する際のイベントCGの構図が全て同じなのはかなり感慨深いですね。草薙健一郎が運転するバイクに乗る夏目圭、夏目圭が運転するバイクに乗る本間心鈴、草薙直哉が運転するバイクに乗る本間心鈴。バイクが同じな点も踏まえると、尚のこと意志が脈々と受け継がれていっているような印象を受けられます。エモい。

 これは余談ですが、サクラノ詩のIV章では草薙健一郎の生前エピソードが描かれ、本作のIV章では夏目圭の生前エピソードが描かれたことになるんですよね……。もしかして、『IV=4=死』を意識している……?

第 V 章:D'où venons-nous ? Qui sommes-nous ? Où allons-nous ?

 最ッッッッッ高に面白かったです。
 最後まで怒涛の展開で、私の心も非常に昂りました。
 これまでに主人公によって救われてきたキャラクターたちが、今度は自分たちが主人公を救うために覚悟を以て立ち上がるという展開、あまりにも好きな系統過ぎるんですよね……。本当にアツい。

 まず語りたい場面は、何と言ってもムーア展残念会会場での一連の場面でしょう。
 アリアが里奈であると予想出来た時点でこういう展開が待っているであろうことは期待出来ていましたが、いざ旧弓張美術部員が続々と勢揃いしていく様を見せられると、ただひたすらに感嘆の一言でしたね。個人的に、旧弓張美術部員の再集結展開は本作に求めていた要素の一つでもありますので、期待に応えてくれてありがとうという気持ちばかりが溢れました。
 サクラノ詩VI章および本作公式ページを見た感じでは、氷川里奈、川内野優美、明石亘の3名はこのままフェードアウトなのかな……とも残念に思っていたのですが、そうならなくて本当に良かった……! おそらくここいら、人によっては明石亘が10年間撮影してきたドキュメンタリーや氷川里奈のアリア周りの設定を指して『後付け』と蔑むのでしょうが、私個人としてはむしろこういう『後付け』であればウェルカムです。目立った設定矛盾も無く、ただただファンを喜ばしてくれる展開に、『後付け』もクソも無いんですよ。こういうのでいいんだよ、こういうので。もっとこういうのくれ!
 ちなみに正直、旧作ヒロインズの登場時よりも、明石亘の登場時の方が歓声(絶叫)のボリュームが大きかったです(笑)。

 次に語りたい場面は、少々尺の長いシーンですが、やはり本章のメインイベントとも言える『即興絵画トーナメント』でしょう。よもやサクラノ詩において存分に心躍らせてくれた草薙直哉 VS 吹の勝負形式がこんな重要局面で見られるとは思いもしませんでした……!! メタ的な話、『魅せ方』としてはこういう勝負形式の方が展開を盛り上げやすいというのもあるのでしょうね。制作サイドのそういう意図は含まれていると思います。私個人としても、完結まで駆け抜けるクライマックスに持ってくる展開としては充分にアリだと思いました。

 第一回戦A組(草薙直哉 VS 宮崎みすゞ)は、若干の消化不良感が残りつつも、それでも初戦の盛り上がりとしては充分な展開であったと思います。ただせめて、直哉と心鈴がいったいどのような作品を仕上げたのかは見せて欲しかったですね……。
 本戦では『技術』について焦点が当たる内容となっていたのだと思います。本戦における心鈴の独白に、以下のようなものがあります。

「天才は才能を忘れさせてくれる……か」
「何度も反復した言葉なのに」
「それにもかかわらず、技術を信頼する事で、私は創作の苦しさから逃げていたのかもしれない」
「絵画とは、表現とは、技術を見せ合うものではない」
「時にはもっとも原始的な技術ですら、人の心を強くうつ」
「数万年前の芸術が、たとえば約3万年前に描かれたショーヴェ洞窟劇画が我々の心を強くうつ様に────」
「そのことに、私は誰よりも自覚的であったと思っていた」
「だが、その思い込みこそが、うぬぼれだったのかもしれない」
「草薙さんは……、この人は、そんな事すら考えていない」
「ただ、彼の意識が、本質を探っている」
「そして、その先で立ちあらわれる相を現前させる」

 こちらの独白、一見すると『技術』は必要無いという話にも見えますが、私の解釈上ではそうではありません。また、同時に、心鈴が第III-III章の寧のように『表層』に留まって『技術』に逃げたというワケでもないと私は考えております。私はこの心鈴の辿り着いた結論の真意を、「『技術』は大事だけど、それは意識して使うものではない」であると解釈しています。技術の研鑽は重要だし、『真実』を芸術として顕現させる際には『技術』が必要となるのは確かだけれど、『真実』を芸術として顕現させるにあたって「この技術を使おう」と自分本位で選択してはならない。芸術に落とし込もうとしている『真実』にはそれぞれ適した『技術』(技術のレベルは関係無し)が存在するがために、芸術家はただその本質をを探り取り、身を任せなければならない。そうすることによって、より『魂を喜ばせる作品』に近付くのだ、と。私はそのような思想がここには込められているものと読み取りました。とはいえ、この後に出てくるセリフにおいて直哉は「彼女達にとっては、技法はどれほど非凡であっても技術の一つでしかない。その作品に必要でなければ使わない」とも言っているので、案外上述したことを心鈴はある程度理解した上で、それでもやはり使うのであればより非凡な『技術』をという風に傾倒していただけとも考えられますね。

 第一回戦B組(長山香奈 VS アリア・ホー・インク)は、個人的に『即興絵画トーナメント』の中で最も心が昂った戦いでした。そもそも凡人である長山香奈が世界的天才であるアリア・ホー・インク(氷川里奈)に立ち向かうという構図からしてアツいのですが、本戦において私の心をさらに昂らせた要因はやはり何と言っても長山香奈の戦法でしょう。草薙直哉の過去作『火水』を意識した真円から始まる逆転劇。しかもそこには『火水』に対して逆説的な意味が込められ、その場にそぐった『真実』も込められている。加えて、それがただの直哉の『火水』の”パクリ”に留まらず、しっかりと自らの描くシリーズとしての色をも醸し出したとなれば、かなり納得出来るジャイアント・キリングであったと言えるでしょう。これまで『論外』として端に追いやられていた『大衆』という層を味方につけたあたりもまた、『凡人』ながらに『天才』の喉元に刃を届かせようとするがむしゃらさが窺えたため、非常に満足度の高い戦いであったと思えました。長山香奈は本戦が始まる前に恩田放哉や草薙直哉に対して「私の美は、たぶん私だけが信じている!他が信じなくても、私は信じているんだ!その美が、必ずお前ら天才どもに追いつき、そののど元に食らいつくと!」と啖呵を切っていますが、まさにそれを有言実行した結果であったと言えるでしょうね。
 長山香奈の描く『美』とは、『反復された凡庸さ』とそれに伴う『安心感』にこそ存在するというのは作中でも語られた通りです。併せて、「芸術家は新奇なものを好み、大衆は反復された凡庸性と見せかけの新奇性による約束された感動を求める」という旨の話もここではされています。本戦における長山香奈は、大衆を味方につけるパフォーマンスが目立っていたこともあり、私も数刻の間は「長山香奈は愚者の眼しか持たない大衆の眼を喜ばせる(≒真実を見出さない)というある種の妥協に着地してしまったのか?」とも思いましたが、よくよく考えてみれば全然そんなことは無いようにも思えるんですよね。彼女の描く『美』の在り方は上述した通りですが、本戦における彼女の絵画もよくよく考えればちゃんとその場の『真実』を見出しているんですよ。彼女はたしかにアリアの絵画を真円で囲み、そこからまるで太陽のようにも見える滲みを生み出しただけであり、アリアと香奈の絵画をそれぞれ単品で見れば質の差は明らかなのですが、それでも彼女が生み出した絵画は、その場におけるジャイアント・キリング、さらに詳しく言えば長山香奈とアリア・ホー・インクの構図を『真実』としてキャンバスの上に描画した抽象画として成立していたのですよね。本間心鈴が恩田寧との即興絵画バトルで描いた絵画が例としては相応しいかもしれません。現地で見出した『真実』を、キャンバスに落とし込む。もちろん策士であろう長山香奈は、それを『未来の真実』として予め準備していたでしょうから、厳密には現地調達ではないとも言えますが……。兎にも角にも、本戦における長山香奈の絵にも『真実』は宿っていたが故に、実は長山香奈も『芸術の本質』を妥協したというワケではないのだなということが読み取れたということについてお話したかった次第でした。

 準決勝戦(草薙直哉 VS 長山香奈)は、正直個人的には不満の残る戦いとなりました。本戦では長山香奈の筆が一時的に神懸かることによって、長山香奈が凡人とは思えない程の力量を発揮する内容でした。この後の展開的に、伯奇伝承や千年桜に関する要素を絡ませなければならなかったということは重々承知しているのですが、それでもやはり長山香奈には凡人として憧れた草薙直哉に立ち向かって欲しかった。少なくとも私は、その光景が見たかった……。幕切れも含めて、少々残念なバトルでした。

 決勝戦の会場に至るまでの展開は、疾走感と緊迫感も相まってかなり胸が熱くなりましたね。迫るタイムリミット、直哉の飛翔を願う走者たち、ゴールに向けて受け継がれるバトン(直哉)、はた迷惑にも仕事に駆り出される警察官たち。全ての要素が展開を盛り上げてくれました。
 中でも、トーマスの想いの吐露はかなり心に響きましたね。幼い頃に憧れたヒーロー。しかし大人になるにつれて自身は特別でないことを知り、ヒーローになる夢を諦める……。そんな矢先に目の前に現れた同年代のヒーローなんてものは、もはや自身の劣等感を掻き立てる存在でしかない。だからそのヒーローを嫌いになる。でも、それでも、どれだけ嫌いでも、ヒーローへの憧れは胸に残っているからこそ、そのヒーローの活躍を見たいと本能が訴える。そして、そんなヒーローの近くで後押しなんかしてやったならば、自分もまたヒーローに手が届くんじゃないかと思ってしまう。だから、例え怖くても奔り出す。……あれほどまでにサクラノ詩では腹の立つキャラクターだったトーマスに対してここまで情が芽生えるとは思いませんでした。きっと5年前の自分に「お前、サク刻でトーマスに好感を持つよ」と伝えても「嘘乙」と言われておしまいでしょうね。
 それはそうと、とこかの考察で、サクラノ詩VI章における直哉に対するトーマスの挑発は、直哉を奮い立たせるためにあえてわざとやっていたのではないかみたいな記述があったような覚えがありますが……。その方は相当に先見の明があったのだなぁと。
 圭が直哉の背中を押すシーンは……語るまでもありませんよね。卑怯が過ぎますよ。あんなん泣かないワケがないじゃないですか……!!

 決勝戦(草薙直哉 VS 御桜稟)。本章におけるラストシーン。即興絵画バトルではありませんでしたが、ただただ草薙直哉の絵画にひたすら感嘆とするシーンとなりました。本作を締め括る絵画としてあれ以上の絵画は無いと思わせるほど、これまでに作中で言及されてきた思想を体現したような絵画となっていました。直哉の描いた『焼身する絵画』に込められていたのは、草薙直哉と夏目圭にまつわる今までの日々と、彼らに関係する人物たちの想い。伯奇の器の水という特殊な具材によって描き上げられたその絵画は、開花と同時にその数々の想いによって鑑賞者の魂を共鳴させ、やがて過ぎ去る風景・消え去る音楽のように焼身し、二本の向日葵だけが描かれた黒いキャンバスという『灰』と化した。鑑賞者の観念で再現されたのは、まさしく『幸福な生』という快楽も苦痛も喜びも怒りも美しさも醜さも幸福も不幸も内包した奇跡のような『美』であったのではないでしょうか。本作のテーマの体現としても、夏目圭の『二本の向日葵』に対するアンサーとしても、相応しい作品であったと私は思っています。

 決勝戦における絵画を語る上で欠かせない『魂の共鳴』については、本章で草薙直哉の口から実際に語られている思想でもあります。該当場面では、『脳のオーケストラ』という例から「感情は共鳴する」とした上で、以下のように語られています。

直哉「だったら作り手の感情と観客の感情はどうでしょう」
直哉「映画のプロットを考えている時や、映像を撮っている時、その時の作り手の脳活動と観客の脳活動にどの程度差があるんでしょうね」
直哉「さらに言えば、絵画で考えるとどうでしょう」
静流「うーん。どうだろう。私だったら陶芸なんだけど、考えると難しい問題だなぁ」
直哉「でも陶芸家だって夢想するわけですよ。自分の心の中で描いた彩釉の美しさを」
静流「そりゃ、そうだね」
直哉「映画に較べれば、絵画や陶芸はそれほど直接には多数の脳を同期させるのは難しい」
直哉「それでも、人が作品に心打たれた事があるとすれば、たぶん想いは共鳴していると思うのです」
静流「たしかに、同じ様な感動を味わっている可能性は高いからなぁ。あるかも」
直哉「その時に一番大事なものってなんでしょうね?」
静流「うーん。どうだろう。やっぱり作り手がそういう感情を持って作品に向かい合うって事だろうか?」
直哉「ボクはそう思います」
直哉「絵画は、絵画そのものじゃなくて、画家の人生という物語によって価値を高めるなんて言われますよね」
静流「うん、昔おばさんから聞いた事がある」
直哉「悪い言い方とされるけど、案外この言い方って間違いじゃないと思うのですよね」
静流「そうか? 絵画そのものの美的価値じゃなくて、その画家の人生を物語化する事で、絵画の価値が決まるってあんまり良くないと思うけど?」
直哉「画家がその絵画と向き合った時、彼の人生がどうであり、そして彼が何を感じたのか」
直哉「この事と作品そのものである絵画が無関係なんて事ありうるでしょうか?」
静流「そう言われると、そんな気もするか」
直哉「他人が作り上げた”画家の物語化”で感動するのであれば、それはたしかに絵画を見て感動した事にならないかもしれませんが」
直哉「けど絵画そのものから、画家の生を感じ、絵画によって魂が共鳴するのであれば、絵画そのものの美に感動するよりも素晴らしいと思います」
直哉「美しいだけの絵画で感動出来ない魂だってあるんですよ」

 言っていること自体は、IV章にて草薙健一郎の口から発せられた『観念の同調』に関する思想とほぼ同じであると考えらえれます。要は、作品を通して『創作者』と『鑑賞者』との間で美意識や想いといった『観念』の同調が行われることにより、『魂の共鳴』が発生し、鑑賞者はその作品を「自らにとっての『本物』」と評するのではないか、ということ。私はやはりここでもそのように解釈しました。
 そしてこれは、やはり直哉が学生時代から一貫して持っている思想でもあるのですよね。サクラノ詩V章において草薙直哉は、御桜稟による『強い神様』(≒美のイデア・普遍的な美)の話を受けて、以下のように語っています。

「人が作ったものなら、それは完璧じゃない。美に完璧は無く、人々の想いによって虚ろに変化する」
「人の美に一貫性は存在しない」

「それは弱い神さまだ」
「だが、人が美と向き合った時」
「あるいは感動した時」
「あるいは決意した時」
「そしてあるいは愛した時」
「その弱き神は人のそばにある」
「人と共にある神は弱い神だが、それでも、人が信じた時にそばにいる」
「人が作り出した神は、たしかに弱いかもしれない」
「けど、人が作り出した神だからこそ、人と共にある」
「俺は、美というものを、そう考えている……」

 人によって『美』は異なるが故に、『本物』もまた異なります。人の美意識や想い(≒精神)は千差万別です。故にこそ、鑑賞者を感動させる(≒本物と評させる)には、『魂の共鳴』を成し遂げられるか否かが鍵になるワケです。
 そんな中、本章で直哉が絵画に落としこんだ『時の流れ(=美)』の中には、多くの人々の想いが含まれています。想いが多ければ多いほど、観念の同調者が増えるのは道理ではあるのですよね。本来、『作り手』一人の想いしか宿らない絵画において、複数人の想いが宿るのであれば、そりゃ『魂の共鳴者』はそれだけ増える。
 見当違いによる恥を恐れずに言ってしまいますが、『”自分”以外の”他者”の想いすらをも内包した絵画』こそが、直哉が作りだそうとした『世界の限界を超える絵画』であるとも考えられるのかもしれませんね。
 ……ここに関しては、本当に流れでそう結論付けちゃっただけなので、もっと考察や検討をしてみようと思います……。

第 VI 章:櫻ノ詩ト刻

 感無量です……!!
 エンディングが流れ始める数テキスト前から終わる気配を感じて情緒が不安定になり、エンディングが始まってからは大声を上げて咽び泣いてしまいました。隣人さん、聴こえていたらすみません。

 本作、ひいては『素晴らしき日々』から脈々とテーマを引き継いできたシリーズ自体のエピローグとなる本章。「幸福な生」という地続きなテーマを完遂する上で、これ以上ない締め括りを魅せてくれたと思っております。誰かを救うために身を削って絵画を描き、幸福と不幸を繰り返し、孤独すらをも味わった草薙直哉。そんな彼の物語の最終地点として描かれる景色が、弓張に戻って来たかつての仲間たちや新たに出来た家族との奇跡的であり幸福な日常であるという点は、本作ひいては本シリーズの着地点としてあまりにも相応しすぎると思います。

 今後もきっと、直哉たちの人生には幸福と不幸の両方が訪れることでしょう。そんな中でも、絶望することなく、恐れることなく、ただこの『幸福な生』を突き進んでくれることを切に祈ります。

総評


●シナリオについて
 私にとっての『魂の作品』である『サクラノ詩』。その続編である本作もまた、紛れもなく私の魂に刻まれた『魂の作品』であると評せます。
 明確に言語化することは難しいのですが、他の『魂の作品』同様、そこには確かに”魂に刻み込まれる感覚”がありました。
 完走した際の余韻と喪失感もまた甚大で、30分ほど涙と嗚咽が止まらなかった程。それほどまでに本作は、私の魂との親和性が高い作品であったと言えるでしょう。

 作品自体のクオリティとしても、かなりレベルが高いと思います。音楽やCG、背景の美しさはケロQ・枕作品としてさることながら、今回は演出にもより気合が入っていましたね。特に終盤の怒涛の演出は圧巻の一言でした。また、『素晴らしき日々』から『サクラノ詩』を経てきた作品だけあって、本作はテーマ・メッセージ的な要素も重厚です。非常に考えさせられました。そして、展開については浮き沈みが激しかったものの、盛り上がるポイントでは相当に盛り上げてくれたので個人的には満足かなと。盛り上がりの少ないパートだろうが構わず没入させてくるあたりにライターさんの文章力の高さも窺えます。総じて、頭一つ抜きん出た高品質な作品であったことは確かです。

 前情報通り、草薙直哉と夏目圭による共鳴の物語としても成立していたと言えるでしょう。本作では様々なキャラクターに焦点が当たりましたが、その中心にいたのは紛れもなく草薙直哉と夏目圭であり、彼らの起こした波紋こそがあらゆる展開に繋がっていました。
 私が本作で見たかった”モノ”は、すべて本作にしっかりと落とし込まれていたのかなと思っております。

 ただ本作、見方によっては『語り過ぎな作品』であったとも言えます。まだ他のユーザーが具体的にどのような評価を本作に下しているのかは読めていませんが、おそらくはここが本作の評価の分かれ目となっているのではないかと考えてみたり。
 あえて作中の表現を使用するのであれば、「無駄なおしゃべりは身体を濁らせる」ですかね。
 上述した<各章感想>において、何かしらの思想を掘り下げる度に私がサクラノ詩からの引用を持ち出したり、「これはサクラノ詩〇章でも言及されたことで~」みたいな補足を入れていたりする点からも分かる通り、本作において言及された思想(テーマ・メッセージ的な要素)って、基本的には『素晴らしき日々』および『サクラノ詩』において既に言及されているものが多いんですよ。意外と新規で登場する思想は少なく、大体が以前に言及された思想を発言者を変え言葉を変えて何度も語られている形式であったという印象を受けます。また、本作は補完を徹底するあまり、サクラノ詩や各部における『行間』のようなものまで明示してしまっているように見受けられました。それは例えば、『二本の向日葵』に込められた夏目圭の実際の想いであったり、中村麗華の雪景鵲図花瓶に対する本心だったりといった感じでしょうか。「ある程度の行間はユーザーの想像に任せる」という作品スタンスは実はけっこう読み手側としては重要で、場合によってはそちらの方が感動が増すということもあるので、何でも明かし過ぎるのは玉に瑕なのかもしれません。
 そんなこんなで本作は、ユーザーによってはマイナス面ともなり得る上述の要素を持ち合わせた作品ともなっております。では、そんな要素を受けて私はどうかと言いますと……。正直、本作においては何ら不満にはなりませんでした。というか、そもそも本作がそのようなスタンスで来ることは分かっていたので、私としてはむしろばっちこいって感じでしたね。私が本作に期待していたのは、草薙直哉と夏目圭のより詳細なエピソードや、サクラノ詩VI章の先にあるかもしれなかった旧弓張美術部員の再集結展開、そしてサクラノ詩のビターエンドを塗り替えるハッピーエンドなワケですから。それらが全て満たされた上である程度の面白さと魂に響く感触がそこにあった時点で、私が本作を不満であると評価することはまずありません。そういった意味でも、本作と私の魂の親和性は高かったと言えるのでしょうね。
 というか、私は正直そもそも『サクラノ詩』が未完であったとは思っていませんからね。アレはアレでビターエンドではあったものの『素晴らしき日々』から受け継いだメインテーマとなる「幸福な生」に関しては満たしていたと考えられますし。『素晴らしき日々』における「幸福に生きよ」がどういうものかさえある程度理解していれば、『サクラノ詩』の時点でも充分テーマの完遂と言えるのではないかとは前々から思っていました。強いて未完であった要素を言うなれば、それこそ展開的な部分。王子の元から飛び立ったツバメである御桜稟が今後直哉のために何をするのかとかその辺に関してでしたので、続編である本作の役割としてはそこを魅せてくれるだけでも良かったまであるかもしれません。

 総じて、私にとって本作はやはり素晴らしき作品であったという結論に落ち着きます。
 ……とはいえ、私自身まだ思考の整理や読解が不足している部分もたくさんあると思いますので、その辺は追々『素晴らしき日々』⇒『サクラノ詩』⇒『サクラノ刻』と再走する時間を作った上で再び考察の旅に出たいなと考えております。
 現時点の私の精一杯としては、これでご容赦を……。

●キャラクターについて
■「草薙 直哉」:主人公。櫻の芸術家。幸福な王子。一流のペテン師。
 全てを見透かす眼を持ち、幼い頃は神童として日本画壇を恐れさせた芸術家。
 直哉の絵画はいつだって誰かのための絵画であり、トーマスから言わせれば紛れもなくヒーローなのですよね。
 かっこいい要素もみっともない要素も、明るい面も暗い面も持ち合わせ、物語の中心人物として次々に展開に影響を与えていく……まさしく『主人公』としては最高峰のキャラクターであったと言えるでしょう。
 天涯孤独を味わった彼の物語が、新たな家族との幸せな光景で幕を閉じるというのは、少なくとも『サクラノ詩』時点では成し遂げられなかったことなので、それが見られただけでも本作には非常に大きな意味があったと思います。
 ただ、直哉くん……。謙遜のしすぎは逆に相手の精神を逆撫でするので止めた方がいいと思うの……。

■「夏目 圭」:故人。夭折の天才。直哉の親友でありライバル。心鈴の師匠。ムーア展エラン・オタリ受賞者。
 草薙直哉の物語を綴る上で、無くてはならない存在です。その存在の大きさは、本作において存分に示されたものと思われます。主人公の親友枠として、彼以上のキャラクターを見たことがない。
 IV章からしても、やはり裏の主人公であることは間違いないでしょう。サクラノシリーズは草薙直哉の物語であると同時に夏目圭の物語でもあったのだと考えられます。
 II章あたりをプレイしている際に、意外と自分が夏目圭の死をちゃんと受け入れられていることに驚きました。まぁ、それはそれとしてIV章ではガチ泣きさせられたのですが。

■「夏目 藍」:グランドヒロイン。直哉の親代わりであり運命共同体。芸術家以外の視点から直哉を見守る者。
 彼女の存在もまた、直哉にとっては大きいでしょうね。孤独の期間を共に支え合った存在であるという点でもそうですが、藍が芸術家ではないながらも健一郎や圭といった芸術家を見てきた存在でもあるという点がかなり重要であると考えています。藍の視点とは藍であるからこそ持てる視点であると思いますし、だからこそ直哉を支える事が出来たのかもしれないと。
 それはそれとして、ざっくり数えると藍先生って本作時点で35~40歳なんですよね……。こんな可愛いアラフォーがいるかいな!! ……いたらいいな……。

■「本間 心鈴」:ルート持ちヒロイン。雅号『宮崎みすゞ』。圭の弟子。中村麗華の娘。
 直哉と同種の眼を持ち、真実を見透かすトップクラスの画家です。
 本作の体験版I章が公開されるまで私は彼女が寧を虐めたキャラであると思っていたのですが、蓋を開けてみれば可愛くも芯のあるキャラクターで安心しました。少なくとも寧を虐めていたキャラクターだったとしたら、素直にヒロインとしては好きになれないでしょうからね。
 メタ的な視点からではありますが、本作発表時点から、圭が身を挺して事故から救った子供が彼女であることは予想出来ていました。しかし、さすがに彼女の師匠が夏目圭であったということまでは予想出来ませんでしたね。彼女と圭のミサゴを見上げる一枚絵は本当に美しい。
 V章の即興絵画勝負で彼女の描いた絵を見ることが出来なかったのは残念でしたね。

■「草薙 健一郎」:故人。直哉の父親。世界的芸術家。一流のペテン師。
 偉大過ぎる主人公の父親。マジでどこにでも首を突っ込み、痕跡をくっきりと残して去っていきます。名言製造人間でもありますね。美の魔性以前に、人間としてのカリスマ性が物凄い。
 サクラノシリーズの主人公は直哉と圭で間違いありませんが、土台として彼らの物語を支えている存在は紛れもなく健一郎でしょう。
 奉仕の精神という母親からの影響ももちろんあるとは思いますが、直哉の他者を積極的に救おうとする生き方は基本的に健一郎の影響が強いのではないかとも思ってしまいますね。というか本人は否定していますが、直哉の思想は大体健一郎と同じですしまぁ……。

■「長山 香奈」:凡人代表。天才を殺す凡人。
 真琴や麗華のように才能には恵まれなかったながらも、それでも芸術から逃げなかった”勇気”あるキャラクターです。我の強さは作中でもトップクラスであり、過激な言動にこそ問題はあるもののやはりこういう自分の芯を持っているキャラクターは強いなぁと思う次第です。
 サクラノ詩時点から『嫌いだけど好きだけどやっぱり嫌いなキャラ』でしたが、本作を通して『嫌いだけど好きだけどやっぱり嫌いだけど一周回って好きかもしれんキャラ』に格上げされました。やっぱスゲェよ、長山は……。惚れちまいそうだぜ。

■「鳥谷 真琴」:雑誌編集。旧弓張美術部部長。圭の義姉。
 学生時代に美の化物たちに囲まれながらも決して自分を見失かった『凡人』です。故にこそ、芸術の世界を追う芸術誌の雑誌編集という仕事は彼女にとっての天職であったのかもしれませんね。
 ただ、いくら寂しかったからといってビッチ化するのはどうかと思うよ、真琴さん……。

■「御桜 稟」:世界的芸術家。ムーア展プラティヌ・エポラール受賞者。直哉の幼馴染。旧弓張美術部員。
 直哉を圭の元へ飛翔させるため、最も身を削って奉仕したキャラクターでしょう。
 役目を終えたVI章における彼女は、まるで憑き物が落ちたかのように表情が柔らかくて良かったです。
 結局、『強き神様』の理論はどうなったのでしょうね? まぁ、それを語ったサクラノ詩VI章の時点からして本当は彼女も『弱き神様』の方の考えの方が近かったっぽいので、あんまり気にすることではないのかもしれませんが。

■「夏目 雫」:旧弓張美術部員。伯奇の力を有する者。稟との運命共同体
 彼女もまた、稟と共に直哉を飛翔させるために身を削って奉仕した存在でしょうね。稟がこれまでに描いた絵画全てに雫の生み出した伯奇の器の水が使用されていたのだとすれば、稟と共に相当な苦痛を背負っていたことが考えられるワケですから……。
 とはいえ、ある意味で雫は稟以上に想いを強かったとも考えられますね。雫にとって直哉は稟同様に自らを救ってくれた存在ですが、圭の方もまた家族であったワケですから。その観点からすると、やはり稟よりも直哉を圭の元に飛翔させたいという想いは強かったものと考えられます。
 そこいらは特典小説で描写されている気もするので、近々読みたいところですね……。

■「氷川 里奈」:旧弓張美術部員。直哉の精神的妹。世界的芸術家。雅号『アリア・ホー・インク』。
 サクラノ詩VI章や本作公式サイトからしててっきりそのままフェードアウトするものと思っていたので、このような形での再登場はかなり驚きました。
 というか、なんなら例のふたなり小説も伏線だったんかーいって感じです。実はアレ、いずれ読もうと思って結局仕舞ったまま読んでいなかったんですよね。良い機会なのでちゃんと読もうと思います。
 里奈もまた、第VI章では憑き物が取れたような感じで良かったですね。

■「川内野 優美」:旧弓張美術部員。デイトレ玄人。里奈の同居人。
 かなりやさぐれている感が満載な様相で登場しましたね。里奈同様にフェードアウトするものと思っていたので、再登場には驚きました。
 ムーア展残念会の会場に唯一登場しなかった旧弓張美術部部員ですが、どうせなら優美もあの場に来て欲しかったですね……。いやまぁ、単純な話、優美の立場的にあの茶番に絡ませる方法が無かったのでしょうが……。

■「明石 亘」:旧弓張美術部員。
 俺達の明石亘、キタァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!
 ……と、プレイ中はマジで絶叫しました。多分、再登場が最も嬉しかったキャラクターです。
 本作では持ち前のお調子者感を出しつつ、サクラノ詩II章でも魅せてくれたカッコよさも魅せてくれたので、かなり高い満足度を得られました。

■「タキザワ・トーマス・ネーゲル・ジュンペー」:旧弓張美術部員。
 本作で株の上がったキャラクター筆頭ですね。まさかここまで良キャラに昇格するとは思わなかった。
 後付け感は否めませんが、それでも良いんですよ。彼が直哉を決勝戦会場に送り届ける際に語った内容はけっこう心を打ちました。

■「恩田 寧」:現弓張美術部員。圭の妹。
 宮崎みすゞ(本間心鈴)に対抗意識を燃やすキャラクター。作中でトップクラスに成長したキャラクターでしょうね。
 『表層』と『真実』という概念を語る上で、最も理解の一助になってくれたキャラクターであるとも思います。
 True世界線では結局VI章の時点でもまだ本間心鈴と和解していないみたいですが、それでも前向きな対抗意識には変わってきているのでしょうかね。

■「氷川 ルリヲ」:現弓張美術部員。里奈の妹。
 サクラノ詩でも小さい頃から登場していたキャラクターですね。
 才能をチラつかせたわりには意外と出番が少なくて驚いています。『サクラノ響』が発売されるのであれば、個別ルートが作られるキャラクターなのだろうなーという感じ。
 立ち絵が他の面々に較べて変化が激しく、ぴょこぴょこと跳ね回る動きが多い辺り、上手く性格を動きで表しているなぁと思いました。カワイイ。

■「川内野 鈴菜」:現弓張美術部員。優美の妹。
 ルリヲ同様、サクラノ詩でも小さい頃から登場していたキャラクターですね。
 ちゃんと優美から悪い影響を受けていて安心しました。
 彼女も直哉に想いを寄せてはいるようですし、『サクラノ響』における活躍を期待したいと思います。

■「咲崎 桜子」:現弓張美術部員。
 直哉に告白してフラれちゃいましたね……。
 サクラノ詩VI章におけるポジション的に、彼女ももっと出番があると思っていたのですが、別段そうでもなかったですね。とはいえ、彼女も『サクラノ響』ではルートヒロイン筆頭でしょうから、彼女の物語がどのように紡がれるのかはそれまでのお楽しみとしておきましょうか。

■「栗山 奈津子」:現弓張美術部員。
 正直、あまり印象が強いキャラクターではないですね。
 第III-I章とかモロに彼女の分野だと思ったのでもっと絡んでくるかなと思ったんですがね。
 彼女の個別ルートははたして『サクラノ響』で作られるのか否か……。こればっかりは分からない。

■「柊 ノノ未」:現弓張美術部員。寧の幼馴染。
 泪川ドヤ街にある直哉行きつけの店の店員さんですね。
 彼女もまた『本物』を自らで判断する真っ当な眼を持っていることが明かされました。香奈の絵を評価した時のように、彼女のような存在は寧のようなキャラクターには必要なんだろうなと思います。
 望み薄ですが、個人的には『サクラノ響』においてノノ未√が欲しいなぁ~とか祈ってみたり。

■「鳥谷 静流」:喫茶キマイラオーナー。雪景鵲図花瓶の制作者。麗華の親友。
 第I章の主人公でもありますね。
 飄々としていながら本心では認められたいと思っているみたいなギャップ、めちゃくちゃ良いですよね。
 第III-II章において、彼女が芸術家で日の目を浴びたのは、はたして彼女にとっては良い事だったのか悪い事だったのか……。

■「中村 麗華」:中村章一の妹。暴君。静流の親友。
 思考が極端で思い込みの激しいヒステリックおばさん。しかしこと芸術に対してはその限りではなく、真っ当な美意識と強い芯を持っている魅力的なキャラクターでもあります。系統としては長山香奈タイプですね。『嫌いだけど好きだけどやっぱり嫌いなキャラクター』に分類されます。
 暴君として藍や恩田家に行ったことは決して許されませんが、彼女の美に対しての姿勢のみ好きという感じですね。
 それはそうと、わりかし麗華の行為シーンは見たかった気がします。

■「鳥谷 紗希」:弓張学園校長。通称『カミソリ』。
 キレ者です。きっと裏では直哉も多くの恩恵を受けているんだろうなぁ……。

■「本間 礼次郎」:南部鉄道グループ副総裁。心鈴の父親。麗華の元旦那。
 色々と裏で糸を引いていた存在。小物感が否めなかった中村章一とは異なり、『悪の美徳』を持つ者としての威厳を有するキャラクターでした。
 おそらく礼次郎、普通に六相図見た時から草薙直哉のファンっぽいですよね。金のためにだけあそこまで直哉を奔らせようとしたとは思えないんですよね……。どちらかといえば、ファンであるからこそ再び直哉が筆を取る光景を見たかったのではないかと思ってしまいます。

■「恩田 放哉」:宮崎絵画学校講師。草薙健一郎の旧友。圭と寧の叔父。
 まぁ……なんというか……可哀想なキャラクターではありますね。本人も自身の書籍で語っていましたが、紛れもなく『芸術』というものに振り回された『凡人』であったと考えられます。あそこまで捻くれてしまうのも頷ける。
 とはいえ、彼の言っていた『美の魔性』なるものは確実に存在するのだろうなとは思いましたね。
 エンディングの一枚絵において寧の描く姿を見つめる彼の表情が、本当に憑き物が取れたような表情で、彼もまた一応は救われたのかな、と。

■「宮崎 破戒」:世界的画家。ムーア展アルジャン・ドファン受賞者。
 大物として登場したわりには、終盤一切出てきませんでしたね。このおっさんなら、体裁とか放り出して即興絵画トーナメントに参戦してくると思ったんですが……。
 破戒による『焼身する絵画』評を聞いてみたい……。

■「マーティ・フリッドマン」:元草薙健一郎のキュレーター。
 敏腕なキュレーターですね。サクラノ詩の頃から彼はいたるところでその手腕を発揮していますが、本作でもその腕は衰えを知りませんでした。
 口では「草薙直哉などに興味はない」などと宣っておきながら、即興絵画トーナメントの宮崎みすゞ戦の際には描き出す前の直哉の勝利を既に確信していたあたり、ツンデレですよねぇ。他の章でも直哉が成長を見せる度に表情が柔らかくなるのが印象的でした。そっけないように見えても、やはり子供のころから見ている直哉には金づるとして以外の感情も抱いているのかもしれないですね。

■「坂本 彰三」:世界的画家。ムーア展ノミネート者。
 役割的には賑やかしという感じでしたが、最後は良い感じのポジションに収まりましたね。
 本作にはかなり芯の強いキャラクターが多々登場しますが、彼のように柔軟に色んな思想を自身の価値観に取り入れることが出来るキャラクターもまたいても良いと思えました。

■「村田 清彦」:世界的画家。ムーア展エラン・フォク受賞者。
 ムーア展で受賞歴がある画家でも、技術に傾倒してしまうことってあるんだなぁと驚きました。
 彼もまた即興絵画トーナメントに参戦していたらまた面白かったかもしれないですね。

■「片貝」:直哉の腐れ縁な友人。
 孤独な時代の直哉を支えたキャラクターでしたが、蓋を開けてみれば結構彼のパイプが直哉にとっては役立っていたりしたんですね。普通に重要人物じゃないですか……。
 私も社会人になって早数年。アラサーも大分極まって改めて感じるのは、こういう腐れ縁の友人こそめちゃくちゃ大事ってことです。大人になると、気軽に会える学生時代の友人はけっこう少なくなりますからね……。ホント大事……。
 片貝クンを、公式サイトのキャラクター欄に載せてあげてくれませんか……?

■「中村 章一」:諸々の諸悪の根源。
 俗物で小物だが、自らにとっての『本物』を見出す目自体は持っているんだなと感心しました。

■「中村 心佐夫」:心鈴の双子の兄。寧を虐めていた暴君。
 長山香奈よりはより大衆に近しい方の『才能を持たない創作者』の代表として描かれた節があります。『小説家になろう』や『カクヨム』、『pixiv』といった誰でも創作物を投稿出来るサイトが世間一般に浸透している現代だからこそ活きるキャラクターであると考えられますね。
 創作活動頑張れ! でも虐めは良くないぞ!!

■「夏目 依瑠」:直哉と藍の娘。
 幸福の象徴でしょう。
 見た感じ、直哉と藍の良い感じのハイブリッドっぽいですし、将来が楽しみですね。
 彼女は両親とその友人たちに温かく包まれながら、すくすくと成長していくことでしょう。
 その先を見届ける事が出来ない私はただ、彼女が送る『幸福な生』に祈りを込めるのみ────

●テーマ・メッセージについて
幸福な生とは、美しい
 散々根拠みたいなものは<各章感想>にも散りばめたような気がするので詳細は割愛します。
 要は、快楽と苦痛、喜びと怒り、美しさと醜さ、幸福と不幸といった様々な表裏一体の要素が詰め込まれ、それらがテンポを刻みながら音楽のように流れ去っていく『人生』こそが、『幸福な生』であり美しいのだということであるかと。
 『素晴らしき日々』で語られた「幸福に生きよ」では、生きる最中において絶望や先の見えない恐怖という美酒に酔うことなく生きることこそが動物的であり『幸福な生』なのだと示した上で、『サクラノ詩』では、実際に幸福も不幸も内包した物語(≒幸福な生の体現)を展開することによって、失うかもしれない幸福や訪れるかもしれない不幸に対して恐れる必要はないことを示しました。そして、その先にある本作では前二作で提示・体現された思想をおさらいも兼ねて随所に散りばめた上で、新規に『幸福な生』が美しいものであることを示したのだと考えられます。
 とはいえ、『横たわる櫻』に書かれた詩がまさにそういう意図で書かれている詩のような感じもするので、或いはこれもべつに新規登場の思想ではないのかもしれませんね。

仮象のはるいろそらいちめん
ただやみくもの因果的交流電燈
明るく明るく灯ります
Watermelonの電気石
音と言語の交差地点
ますます色彩過多の世界にて
七つの櫻が追い越した
わたしめがけて追い越した
ふうけいより先にわたしはなく
わたしより先にふうけいはなく
追いかけ追いつきいなくなる
ふわふわとつつまれ世界は消えていく
ふわふわの櫻の森で世界が鳴った
美しい音色で世界が鳴った


余談


 2018年。まだ私が周囲の眼など一切気にすることなく、Twitterでのネタバレを躊躇していなかった頃。
 私は、ふと以下のようなツイートを行いました。

 ……まさか、この予想が本当に当たるなどとは、少なくとも当時の私は思ってもみませんでした。メタ的な視点での根拠こそありましたが、立ち絵と名前しか出されていない中での予想でしかありませんでしたからね……。

 2019年に発売されたサクラノ刻ファーストファンブック記載のインタビューにおいて、すかぢ先生は本間心鈴や中村麗華、鳥谷静流といったキャラクターについての話題の際に、以下のようにおっしゃっていました。  

Twitterとか見ると、最近はかなり鋭い予想をしてくる人がいるので、あまりネタバレも出来ないのです。

 当時も同じ予想をしている人を探した記憶がありますが、今探してみても当時にTwitter上でこの予想をしていた人は私を含めて2人しかいませんでした。もちろんネタバレにならないようあえてどこにもアウトプットしていないだけで同じ予想をしていた人はいると思います。また、ここでいう『予想』の対象がそもそも心鈴のルーツに限らないとも考えられます。諸々の理由から、この点で自身を驕ったり鼻を伸ばしたりする気は一切ありません。
 ……ただ、ここですかぢ先生がおっしゃっていた『鋭い予想をしてくる人』の中に、自分も含まれていたら光栄だな、と思った次第でした。

 思えば、すかぢ先生に謎にTwitterでフォローしていただいたのも当時だった気がする……。私は先生に限らずあまり自発的に誰かに対してリプライを送るタイプでも無かったのでかなり不思議だったのですが、もしかしてこの件と因果関係がある……? いやまぁ、当時は他にも『True√と真琴√の対比から見た真琴√の重要性』みたいな考察文もツイートしていたので、そこいらがきっかけという可能性もあるのかもしれませんが……。

おわりに


 『サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-』感想、いかかだったでしょうか。

 読解要素・考察要素に関しては相当に詰めが甘く非常にお見苦しいモノの数々となっていたことと存じますが、いつか改めて出直して参りますのでその辺はご容赦いただけると幸いです。

 それはそうと、本感想の冒頭において『魂の作品』が『魂の作品』たる所以を語れないという話をしましたが、作中で示された言葉を借りるのであれば、もしかするとそれは『魂の共鳴』或いは『観念の同調』という表現で説明出来てしまうのかもしれませんね。

 次にプレイする作品は……さて、何にしましょうかね……?
 正直、サクラノ刻ロスが大きすぎて、今は何も考えられないです。ゆっくりと考えていこうかなと思います。

 それでは✋